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秘密の海辺の散歩
「先生、貝殻、拾いました」 狭霧華蓮が大きな渦巻き型の貝殻を差し出すと、紫峰怜花はしゃがみ込んでそれを受け取った。 「渦巻き型の貝殻ね、耳に当てると波の音がするんだよね」 「しますね。……でもそれ、錯覚で実際は波の音ではないんです」 「えっ、そうなの?」 華蓮はくすっと笑った。 「鼓膜の中に響く周囲の音が、貝の形で反響しているだけです。空気の流れや血流音も混ざって、“波っぽく”聞こえるんです」 「……へーそうなのね」 「波の音が聞こえるのは、耳が“外界のノイズ”を再構築してるんです。ある意味、記憶のフィルターかもしれません」 「……華蓮さん、理屈っぽいけど、ちょっと詩人ね」 では先生、錯覚と知ったうえで耳に当てたまま、目を閉じてください」 「え、こう?」 怜花が貝殻をそっと耳に当て、目を閉じると、しばらくして―― 「ね? やっぱり“海の音”がするでしょう?」 「……うん。する。不思議。錯覚って知ってるのに、やっぱり海の音って思っちゃう……」 「それが人の認知の優しさです。事実よりも、感じたいものが優先されることもあるんです」 怜花はそっと目を開けて、華蓮の顔を見た。風が、前髪をやさしく揺らしていた。 「思い出や、静かな気持ちや、誰かと歩いた浜辺。そういう記憶が、貝の中に呼び起こされるのかもしれません」 「……じゃあ今の私は、華蓮さんと歩いたこの海の音を、覚えてるのかな」 「たぶん、それは今日だけの特別な音です」 一瞬、潮風が吹いて、ふたりの髪が交わる。 貝殻をそっと外した怜花が、笑いながら言った。 「じゃあ、その音……ちゃんと覚えておこうかな」 「……はい。私も、同じのを、聞いていましたから」 夕日の光が、波間できらめいた。 鼓膜の奥でまだ、ふたりだけの波の音が、静かに揺れていた。