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桜餅騒動・和室の静寂
――午前、演習地の裏庭 春。霞がかかった演習地の裏庭にて、ブロント少尉は桜の花びらを夢中で拾い集めていた。 頭には春を象徴するような冠、手には杵と臼、背後には……なぜか湯気の立つ餅用釜。 「ふふっ。春の精霊が、ここに降り立つのですね……! 餅よ、咲け……っ!」 幻想的な笑顔を浮かべながら、彼女は桜の花びらを水に浮かべ、花びらがほんのり染めた水で餅米を蒸し上げる。 そして、蒸しあがったもち米に、残った花びらを一気に混ぜ込んで、ひたすらに突く! 「こねて、叩いて、魂を練り込む……これが伝統的な“春神式”なのです……!」 その語源も出典も不明な儀式めいた餅つきに、士官候補生たちは戦慄しながら遠巻きに見ていた。 最後に少尉は、桜の枝ごと摘み取った一輪を、その餅にズブリと挿す。 「完成です……!“春降る魂の桜餅”、全軍規模で配布可能!」 仕上がった餅は―― ピンクの斑点が全体に浮き、枝が生え、花びらがところどころ表面に張り付き、ねっとりと光っている。 生物のような何かを感じさせるその“桜餅”は、まるで神聖な何かを宿しているようでもあり、 危険な神性を秘めた呪物のようでもあった。 ――その頃、厨房テントの中 一方その頃、富士見軍曹は落ち着いた手つきで道明寺粉を蒸し上げ、丁寧にこしあんを包み、 塩漬けにした桜葉でやさしく巻いていた。 餅のひとつひとつが、まるで春を詰め込んだような小さな宝石のようであり、 彼女の指先からは、“日本の春”そのものの気配が漂っていた。 「……あの人のは、たぶん“春の化け物”になる」 言いながらため息をつく軍曹。その横には湯呑と、丁寧に点てられた抹茶。 静けさと香りが漂う空間が、あまりにも対照的だった。 ――そして午後、和室にて 昼下がり。軍の演習地の隅にある、古い和室。 畳の香りと、外の竹林が揺れる音が静かに響いていた。 富士見軍曹は、膝を正して正座している。その前に、 金髪のポニーテールを緩くほどいたブロント少尉が、少し居心地悪そうに正座していた。 「ブロント少尉、いえ。アンジェラさん、少しお話することがあります」 その呼びかけに、少尉はふいに目を見開き――戸惑ったように笑った。 「……富士見軍曹? どうしました? わたくしの餅づくりに何か改善点が――」 「……あれは、餅じゃありません」 ぴしゃりと断たれた言葉に、少尉の背筋がぴんと伸びた。 富士見軍曹の声は柔らかかったが、いつもよりずっと低く、そして大人だった。 「あなたの“桜餅”、たしかに形は面白かったです。春の象徴だとか、魂をこめるだとか。……でも、それを食べさせようとしたのは問題です」 「……えっ。でも、枝は飾りで――ちゃんと餅ですよ? 花びらと神気を混ぜて――」 「アンジェラさん、あなたの“信じている日本”と、現実の日本は、違うんです」 淡々と、静かに、軍曹は言葉を続ける。 「あなたは、わたしたちの文化に敬意を持って接してくれています。それは嬉しい。でも、正しい敬意には正しく理解する努力が、同じくらい大切なんです」 「……努力はしてるつもりです。でも、何か違いましたか?」 「あなたの作った餅は、たしかに美しかった。けれど、それは“春の供物”であって、“食べもの”ではありません。 ……わたしたちにとって、桜餅は、お茶と一緒に楽しむ春の味です。人と人が心を寄せ合う、やさしい時間のためのもの」 少尉は、何かを悟るように、そっと手を膝に置いた。 普段はどこか浮世離れしている瞳に、かすかに現実の色が差す。 「……つまり、わたくしの餅は……食べるには……向いてなかった」 「向いてません。美しさと毒は別物です。 でも――あなたが“春を伝えたい”と思った気持ちは、本物だと、私は思ってます」 その一言に、ブロント少尉はふっと目を伏せる。 「……富士見軍曹」 「はい」 「わたくし、軍でいちばん親しいのが貴女というのが、時々不思議です。でも……たぶん、それは、とても幸運なことだと思います」 軍曹は、わずかに目を細めて、少しだけ笑った。 「奇跡みたいな桜餅を作る人の隣には、現実を見る人が必要なんです。……この国では、ずっとそうやって春を過ごしてきたんですよ」 風が、襖をふわりと揺らす。 二人の間に、桜の香りを含んだ沈黙が漂った。