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高所
忘却の頂に揺らめく蒼き神話(ラプソディ) 深緑の森を背景に、一本の高い塔がそびえ立っています。その最上階のバルコニーで、長い銀髪を風に遊ばせながら佇んでいるのはエルフの戦士――名をスキアラと申します。彼女はいつでも高所を好み、夜明け前の薄闇から大空の一端まで見渡し、心を解き放つのを習慣にしておりました。 ある日、塔の麓にある小さな村の人々が、そんなスキアラに声をかけました。 「スキアラさん、どうしてそんなに高い場所が好きなんですか?」 彼女は誇らしげに胸を張り、こともなげに答えます。 「私にとって空はただの景色じゃないんです。きらめく雲を追いかけていると、自分も軽やかな風になれそうな気がしますから」 村人たちは目を丸くしながらも、なるほどと頷き、しばしその美麗な横顔に酔いしれるのです。 ところが、近くにいたドワーフの職人グルムは、盛り上がる村人に混じってひょっこりと口を開きました。 「エルフと煙は高いところが好きだからな」 まるでずけずけと物言う子どものような軽口に、スキアラは首を傾げながら微笑を浮かべます。 「聞いたことはありますが、それってどういう意味なんですか?」 それを聞いた村人は苦笑しつつも、グルムに助け舟を求めるような視線を送ります。するとドワーフは引きつった顔で、渋々と口を開きました。 「おいおい、本気で知らんのか? 昔から『馬鹿と煙は高いところが好き』って言って、煙は自然と上に昇り、お調子者は高い場所に立ちたがる、つまり……揶揄(やゆ)する言い回しだ」 スキアラはぱちくりと目を瞬かせ、にこりと笑いながら言います。 「へえ、そんな言い伝えがあるんですね。面白いです」 その無邪気な笑顔が、どうやら彼女自身を馬鹿扱いしているという事実をまるで理解していない様子です。あまりに能天気なので、傍の村人は戸惑い、グルムはこっそりと「あいつ分かってないぞ」と小声で呟きました。 やがて、村人の一人が噴き出そうとする笑いを抑えてスキアラに声をかけます。 「スキアラさん、今のはあまり良い意味じゃないんですよ」 けれど、当のエルフは小首をかしげるばかりです。そこでグルムが仕方なく、もう一度はっきりと伝えました。 「つまり、お前のことを馬鹿だって言ってんだ。……冗談、顔だけにしろよ」 すると遅まきながら気づいたスキアラの頬が、見る見るうちに赤く染まっていきます。 「な、な、なんですって……! 私のどこが馬鹿ですってーっ!」 憤怒を爆発させたエルフは、手にした長槍をぐっと握りしめ、あまりにも素早い動きでドワーフに飛びかかります。体格では劣らないグルムですが、敵は怒りで突拍子もない力を発揮する戦士、しかもエルフ特有の俊敏さが加わって地響きのように追いかけ回してくるのです。 「ちょ、ちょっと待てって! 俺はただ言い伝えを教えただけで――」 「責任とりなさーい!」 森の中を逃げ惑うドワーフの声と、激昂したスキアラの叫びが村外れまで轟きました。 村人はその声を遠くに聞きながら、小さく肩をすくめて笑います。 「あの二人、仲いいな」 しかし、グルムは、命からがら叫びました。 「助けてくれ、この腕白エルフめ!」 その後――。森の小道を一人で歩いていたスキアラが、ふいにどこからともなく聞いた言葉に立ち止まりました。 「エルフと鋏(はさみ)は使いようとも言うしな」 声の主は木陰で斧を研いでいたドワーフのグルムでした。相変わらず何か引っ掛かる言い回しですが、本人はいかにも言いたげな顔つきです。 「今度は何のことです?」 スキアラが訝しむように問いかけると、グルムが得意げに説明を始めました。 「馬鹿と鋏は使いようって言葉があってな。鋏は正しく使わないと切れんし、使い方を知らんと非常に危険だ。人間だろうがエルフだろうが ‘馬鹿’ にはな、うまく導けば役に立つが、そうでなけりゃ厄介になるばかりだって話さ」 「ふーん、いまいちピンと来ないですね。つまり私を馬鹿と例えてるんですか?」 「いや、そこまで言ってねえよ!」 そう言いながらもグルムは吹き出しそうな様子で、思わず言いました。 「……ああ、またやっちまった」 案の定、「馬鹿」と直球で言われた今度も、穏やかなエルフの微笑みが曇り、やがて黙って槍を構えます。グルムは顔面蒼白でそこから飛びのきました。 「ま、待てスキアラ! 喧嘩は流れたはずじゃ――」 「ふっ……今日の私は本気ですよ」 そう言い切ると同時に、風を切る音をつれて再び追いかけっこが始まりました。村人が曖昧な笑顔で遠巻きに眺めるなか、ドワーフが森の奥へ逃げ込む姿はさながら山ウサギのよう。それを容赦なく追い立てるエルフのシルエットが、木洩れ日の下で鮮やかに踊っています。 そんな激走の途中、スキアラはぼんやりと空を見上げて叫びました。空には小さな三日月のような淡い雲が浮かんでいます。 「あの雲はただの空気だよ。恋と一緒だな」 グルムは何のことだと振り返るも、追いかけてくる槍があまりに怖くてそれどころではありません。 「スキアラ! そんな安いロマン語りは後にしてくれ! とにかく振り回すなって!」 「うるさい! いくら小さくてもね、侮(あなど)りがたき雲もあるんです。冗談じゃないわ!」 そうして馬鹿騒ぎとも言える追撃戦がしばらく続くと、スキアラは驚くほどあっさり槍を収め、ふうっと息をつきました。彼女は何かを思い出したように目を瞬かせ、照れたような笑みを浮かべます。 「ごめんなさいね、グルム。勝手に走り回って疲れちゃった」 「いいや、助かったぞ。もう少し続いてたら、俺の命が先に尽きるところだった」 互いに顔を背けるようにして一息つく姿は、どう見ても仲の悪い連中同士。それでも二人のやり取りはいささか楽しげにも見え、奇妙な絆を感じさせます。 そんなやりとりを村の遠くから眺めていた人々は、笑いながらささやき合いました。 「あいつら、ほんとに仲良いのか悪いのか……」 「たぶん、二人なりに上手い距離感で付き合っているんだろうよ」 やがて夕刻より少し前、スキアラはまたひとり高所へ登り、雲ひとつない青空を見渡します。彼女の瞳に、ふと何か慈しむような光が宿りました。 遠い風の流れが、透き通った青を優美に横切ってゆきます。微細な空気の波が大気を揺らし、天へと昇る雲はそれぞれ独自の足跡を刻んでおります。地上から見上げれば、果てない幻のように広がる風景。その合間を縫うように風が走り、わずかに残る陽の導きに、ひそやかな希望が灯っております。今宵星が映す物語は、エルフとドワーフ、二つの意地のすれ違い。されど彼らの喧騒は、まるで風に溶け込む鳥の囀(さえず)り。きっと明日も、同じ空の下で、ふたつの魂は互いを高みへ運ぶのでしょう。囁く風の余韻が彼方へと消えるかのように、深く、透明な夜の呼吸がはじまります。