黒霧の夜に、フルートは響く
夜の下町は、昼とは別の顔を持つ。 王都南区――運河沿いの煉瓦街。 煤けた煙突。 濡れた石畳。 魔導配線の青白い灯り。 酒と香辛料と鉄の匂い。 その地下にあるライブハウス《ブラック・ミスト》は、表通りの人間からすれば“あまり近寄るべきではない場所”として知られていた。 もっとも。 実際に危険なのは、酒代を踏み倒した時くらいである。 今夜もまた、店内は騒がしかった。 獣人。 冒険者。 工員。 学生。 訳ありの魔術師。 夜勤明けの傭兵。 はぐれ者。 そんな連中が、酒を飲み、煙草をふかし、音楽を待っている。 「はいはい、席詰めてー! 鍋まだあるから喧嘩しない!」 湯気立つ大鍋を軽々持ち上げながら、緑髪の少女が店内を歩き回る。 チェルキー。 賢者の学院・調理栄養学科助教。 ロリータ風味のフリル付きメイド風コック服に、緑金の助教マントという妙な格好だが、本人は完全に仕事着のつもりだった。 腰には大ぶりの牛刀。 壁にはグレイブ。 どう見ても前衛職だが、本人は料理担当のつもりでいる。 「チェルキー、シチュー追加ー!」 「はいはい、今持ってくよ!」 小柄な身体で樽まで軽々運びながら、チェルキーは厨房へ引っ込む。 その横では。 「ガッハッハ!!飲め飲め!!」 身の丈七尺はある黒人アフロの巨漢――バルサムが豪快に笑っていた。 大地母神マーフィアの神官戦士。 悪人面。 筋肉。 サングラス。 初見では九割が逃げる。 だが。 「騒ぐなら飯食ってからにしろ!!腹減ってるとロクな事考えん!!」 という妙に生活感のある説教を始めるので、常連たちは完全に慣れていた。 「バルサムさん飲ませすぎ!」 「ガッハッハ!!若ぇんだから食って飲め!!」 「だからって樽ごとはダメだって!」 天井梁では。 「ふひひ……油断してると肉全部なくなりますよぉ」 黒髪の長身美女が、逆さにぶら下がりながら串肉を盗んでいる。 シャーリー。 スカウト科助教。 幸運神の神官。 胡散臭さの権化。 なお誰も止めない。 「店主ー。シャーリーまた盗み食いしてるー」 「見えてるよー」 「合法です」 「どこがだ」 そんな騒がしさの中心から少し離れたステージ脇。 リリスは椅子に浅く腰掛け、静かにフルートを弄っていた。 銀髪。 少し尖った耳。 冷笑的な美貌。 黒を基調としたゴスロリ調のライブ衣装は、学院助教の制服を魔改造したような代物だった。 幾重ものフリル。 黒薔薇。 銀鎖。 編み上げコルセット。 その上から、呪歌学科の青金マントを無造作に羽織っている辺りが、実にリリスらしい。 「……今日、人多いね」 狐耳を揺らしながら、ダキニラが隣へ座る。 「ん」 「また変な噂広がってるよ。“危険思想の呪歌神官が若者を洗脳してる”とか」 「暇なんじゃない?」 リリスは鼻で笑った。 「まぁ実際、人気ありますしねぇ」 梁の上からシャーリー。 「“炎の魔女”まで堕としてますし」 「堕としてない」 「でも来てますよ?」 「……は?」 リリスが顔を上げる。 店の隅。 フードを深く被った少女が、一人だけ妙に姿勢良く座っていた。 黒と赤の高級学院制服。 長い赤髪。 そして、隠しきれない気配。 「…………」 カミラだった。 魔法女学院の才媛。 交流戦でリリスに敗れた炎の魔女。 彼女は気まずそうに視線を逸らした。 「……べ、別に」 「視察ですわ」 「ふぅん」 リリスはそれ以上追及しなかった。 その時だった。 ――ドン!! 地下店の扉が、轟音と共に開いた。 眩い白光。 空気が変わる。 店内の笑い声が、一瞬で止まった。 現れたのは、白金の巨大十字架を掲げた武装神官たちだった。 光り輝く鎧。 過剰な聖印。 威圧的な純白マント。 “見せつけるための聖職者”。 その先頭の男が、怒声を響かせる。 「邪教徒リリス!!」 「貴様を危険思想扇動、および異端呪術使用の疑いで拘束する!!」 場の空気が凍った。 客たちが、ゆっくり立ち上がる。 誰も武器は抜かない。 だが。 リリスと狂信者たちの間へ、自然と壁を作るように立っていく。 獣人の工員。 夜勤帰りの傭兵。 学院生。 酒飲み。 ただ、この場所を壊されたくなかった。 カミラは息を呑む。 狂信者たちの殺気。 それに対して。 リリスは。 「……めんど」 ただ、それだけ呟いた。 そして静かに、フルートを手に取る。 「黙れッ!!その邪悪な呪歌を――」 演奏が始まった。 静かな音だった。 激しくもない。 禍々しくもない。 ただ。 懐かしく。 寂しく。 どこか、温かい旋律。 夜道。 雨音。 遠い灯り。 帰れなかった日の記憶。 そんなものを思い出させる音。 「な……」 狂信者たちの顔が歪む。 「くっ……!」 「耳を塞げ!!」 「おお、光よ!!我らを守りたまえ!!」 勝手に怯えているのは、どちらだろう。 リリスは、ただ演奏しているだけだった。 やがて。 騒ぎを聞きつけた衛兵たちと、各宗派の神官たちが地下へ降りてくる。 その中央。 白灰の法衣を纏った高司祭が、疲れたようにため息をついた。 「……いやはや」 「少々、誤解があったようだ」 静かな声。 だが場を制圧する重みがあった。 「朝と夜は、交互に来るものです」 狂信者たちが言葉を失う。 その横で。 「お前たちは夜が怖いのか!!」 バルサムが怒鳴った。 「とっとと家帰って寝ろ!!寝不足の方がよっぽど危ねぇ!!」 「バルサム殿、煽らないでください」 「煽ってねぇ!!」 完全に台無しである。 その頃には、チェルキーがもう鍋を運んでいた。 「はいはい、騒ぐならまず食べなって!」 「チェルキー、酒ー!」 「はいはい、こぼさないでよ?」 「ガッハッハ!!飲め飲め!!」 「だからバルサムさん飲ませすぎ!」 空気が、一気に緩む。 地下ライブハウス《ブラック・ミスト》。 そこは。 正義でも悪でもなく。 ただ、“夜に居場所を持つ者たち”の場所だった。 そして店の隅では。 カミラが、まだ帰れずにいた。 目の前には、手を付けていないシチュー。 聞こえる笑い声。 漂う湯気。 そして。 遠くで静かにフルートを片付ける、銀髪の半妖。 カミラはまだ理解できなかった。 ここが悪なのか。 それとも。 自分が知らなかっただけなのか。

