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ライオンと戦うエルフの戦士
荒涼(こうりょう)とした砂に覆われた闘技場。観客席には貴族や豪商がずらりと並び、彼らは今か今かと血なまぐさい戦いの幕開けを待ちわびている。巨大な鉄格子の奥から引きずり出されるように現れたのは、エルフの女戦士・イオネッタ。彼女は光沢のある白銀の髪を長く垂らし、透き通るように尖った耳を持つ。しかしその目つきはどこかぼんやりしており、「えっと、あれ? どこから登場するんだっけ?」などと呟(つぶや)いて、見物人の失笑を買っていた。 そんな彼女がなぜここにいるかというと、「闘技場の猛獣と戦って勝利すれば自由の身になれる」という甘い言葉に乗せられ、無謀にも参戦したからにほかならない。イオネッタは自分の緻密(ちみつ)な戦略など一切持たないまま、なぜか「私ならきっと余裕よ! 平気平気!」などとのん気に構えている。観客の視線は半ば呆(あき)れを通り越し、どこか興味本位に変化しつつあった。 ところが鉄格子がもう一方で開き、威風堂々とした金色のたてがみを揺らすライオンが闘技場へ入ってくると、場の空気は一変する。筋骨隆々としたその体躯(たいく)、鋭い眼光。見るからに凶暴そうな猛獣である。イオネッタはさすがに顔色を失いかけ、「ひゃ、ひゃあ……思ったより強そうじゃない?」としり込みした。同時に、観客席からも一斉に歓声が上がり、場内を大きく包んだ。 その時である。ライオンがふいにイオネッタに近寄り、小声でこう囁(ささや)いた。 「エルフよ。協力して悪の暴君ハバネロを倒そう」 いきなりしゃべりだしたライオンに、イオネッタは瞳を丸くする。観客席からは猛獣が吠(ほ)えているようにしか聞こえないが、どうやらこのライオンは天才的な頭脳を持つ“バブルス”という名の雄ライオンらしい。彼はこの闘技場にわざともぐり込み、狙いを定めていた。 「え、え……ライオンがしゃべってる? えーと、つまりどういうこと?」 イオネッタはどこか抜けた表情で聞き返す。 「詳しい話はあとだ。ここの支配者である暴君ハバネロを倒せば、おまえは自由になれるだけでなく、そう、この国自体も救われるという寸法だ。一緒に協力してくれないか」 「いや、でも私、ただ自由になりたいだけで……えっと、どうしようかな」 イオネッタは視線を宙(ちゅう)に漂(ただよ)わせている。 するとバブルスはたてがみを逆立てて、さらに声を潜(ひそ)めた。 「ここは芝居を打つんだ。ふたりで死んだふりをして、ハバネロが油断して近づいてきた隙に逆襲する。そうすればやつを捕らえられるはずだ」 「……わかった!」 イオネッタはようやく納得したのか、ポンと手を打ち合わせ、うなずく。 さっそく試合開始の合図が鳴り響くと、闘技場の真ん中へと誘導されたイオネッタとバブルスは、剣や爪を繰り出すわけでもなく、まるでドタバタ喜劇のようにから回りした。剣を空中で振り回すイオネッタに、鋭い動きで飛びかかるふりをするバブルス。観客席からは「どうした、やれー!」など歓声ともあざけりともつかぬ声が飛ぶばかり。 だが、ひとしきり騒いだあと、二人はわざと派手に倒れこみ、それぞれ倒れたまま微動だにしなくなる。あまりに不自然な展開に、観客もハバネロ本人もあっけにとられた。ハバネロは貴賓席から小走りに降りてきて、警戒しつつもこの“珍事”を確認しようと砂の上を踏みしめる。ハバネロの大柄で貫禄(かんろく)のある姿に、イオネッタは横目でつい震えそうになりながらも、小声でバブルスに言う。 「ねえ、計画は突然だよ。恋と一緒だな……ってこんな時に言ってる場合かな?」 するとバブルスが即座に小さく突っ込む。 「冗談、顔だけにしろよ」 そうこう言う間に、ついにハバネロはイオネッタたちのそばまで接近してきた。死んだと思わせたまま、イオネッタは拳をギュッと握った。その瞬間、「今だ!」とばかりにバブルスが飛びかかり、ハバネロの足を狙って強烈な一撃をかます。さらにイオネッタは地を這(は)うように体をひねらせつつ、懐に入り込み、得意の短剣でハバネロのマントを裂いた。 「ば、ばかな! いきなり目覚めるんじゃない!」 ハバネロは驚きながらも反撃をしようと構えるが、そこは抜けたように見せかけて実は器用なイオネッタの立ち回りと、知能派ライオンであるバブルスの連携が勝った。完全に絡め取られたハバネロは、あっさりと動きを封じられてしまう。 やがて、闘技場にいた衛兵たちも状況を飲みこめず右往左往していたが、バブルスの鋭い吼(ほ)え声とイオネッタの「さあ、あんたたち、ボーッとしてないでハバネロを連れていきなさい!」という剣幕に押されるように、ハバネロを拘束して連行していった。観客たちはしばし静まり返ったあと、どこからともなく歓声が沸き上がる。イオネッタはその声援を華麗に(というよりは妙にぎこちなく)受け止めつつ、バブルスとそっと目を合わせた。 「イオネッタ、これでおまえは自由だ」 「やったね。えへへ……あれ、そういえば私って次、どこ行けばいいの?」 その問いかけに、バブルスは呆れ顔を見せながらも、「冗談、顔だけにしろよ」と言いたげな様子で鼻先をクンクン動かす。どうやら彼女の抜けた言動にペースを乱されるのも、もう慣れっこになりつつあるのかもしれない。 夜明けの風は、闘技場の砂をやさしくさらい、その先に広がる城門を静かに照らし出します。空にはまばらな星々が名残惜しそうに緩やかな雲間をめぐり、透明な群青色がゆっくりと大地を包み込んでおりました。イオネッタと天才ライオンのバブルスは、見下ろされた世界の果てを目指すかのように、闘技場をあとにします。うるんだ光の調べを讃(たた)える早朝の大気は、ふたりの足取りに微かな勇気を吹き込み、遥(はる)かな旅への序章をそっと告げるのでございます。