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エルフのツバサが翔るボールファンタジア
「おっす、オラ翼。エルフのツバサ」そう言いながら、深緑色の髪を揺らした少女――いえ、エルフの戦士が、森の奥から颯爽と出現した。彼女は珍しく重厚な鎧を着崩し、手には弓ではなくサッカーボールを抱えている。顔が水滴で濡れているのは朝露のせいか、「顔が濡れてて力が出ない」などと言いながら擦り拭いている姿がちょっぴり情けない。 「ヒトの世界のワールドカップ? それって、なんだか楽しそうじゃん。あたしもやってみたい!」 彼女がそう思ったきっかけは、森に迷い込んだヒトの少年が見せてくれたサッカーの映像だった。飛び跳ねる選手たち、熱狂するスタジアム、そして「ボールは友達」なんて言葉が胸に響いたのだ。エルフの戦士として剣術や魔法はたしなむものの、ヒトのスポーツというのは未知の世界。それゆえに魅力を感じたのだろう。 「なんでわざわざヒトの世界に行くのさ」と仲間のエルフに止められたが、「早く人間になりたい!!」とどこかで聞いたフレーズを口真似しながら、ツバサはあっさり人間界へと旅立ってしまう。エルフにとっては人間の国などついでに寄るくらいの距離感だ。 ヒトの世界に着くやいなや、彼女はその天賦の身体能力と軽妙な魔力を駆使し、あっという間に国内リーグに参加。さらに代表チームに招集され、ワールドカップにまで出場する大活躍を見せることになる。もちろん周囲は大混乱だ。「エルフの戦士がサッカーをやってるってマジかよ」と騒がれつつも、彼女はゴールを量産。観戦していた少年少女は目を輝かせ、大人たちですら驚嘆し拍手を送っていた。 ところが、大会が進むにつれ妙なクレームが持ち上がる。「相手選手が不自然に吹き飛んでいる」「しかもごくまれに雷のような魔法エフェクトが映像にちらついた」というのである。ずば抜けたエルフの身体能力なら、相手を吹き飛ばすことも不可能ではない。だが、ツバサは「本気出すの面倒くさい」などと呟きながら、試合中にちょこちょこ魔法で相手を吹っ飛ばしていたのだ。 「どういうことだ!」と詰め寄る相手国の関係者。VTRを何度見返しても、決定的な証拠は映っていない。「冗談、顔だけにしろよ」と思わず突っ込みたくなるようなハッタリから始まった疑惑だが、当の本人は面倒くさいと言わんばかりに、魔法を使って周囲の記憶をさっぱり消去。結局カップ戦の途中でエルフの里へ帰ってしまった。 それ以降、人間界では何事もなかったかのように大会が進められた。ツバサ本人はというと、サッカーに飽きて次なる獲物を探していた。そんな時に知ったのが、二刀流で活躍し続けるヒトのアスリート“大谷”だった。彼の打撃と投球のニュースを見て、「スゲーじゃん! 惚れた!」と一目で虜になり、「大谷は超人だよ。恋と一緒だな」と口癖のように言い出す始末。 そうして数年後。かつてツバサと共にワールドカップに出場した人間界のサッカーチームメイトたちは、思い出話に花を咲かせていた。あの時のゴールラッシュ、波乱の試合展開――しかし、なぜか記憶の中に“一人欠けている”ような違和感を覚える。「あれ? 誰だ……えーと……?」「たしかに一瞬、雷が落ちた気がしたんだけど」と皆が首をひねるばかり。脳裏を掠めるのは不思議な魔力の爆発感と、森の奥から来た弾丸ストライカーの幻影だけ。結局その“誰か”は誰も思い出せないまま、記憶の霧の中へと溶けていったのだった。 大気を撫でる淡雪のような雲が、天高くたゆたいながら、蒼い空の真ん中を悠然と横切っていきます。森と街の境目には金色に輝く朝の陽射しが差し込み、微かな風が草原を一面そよがせるのです。どこからともなく、かすかな弦の調べが流れ、聞く者の心を洗い流すように響きます。今もエルフの里では、軽やかに弾む足音とほんの少しの雷光がきらめいているかもしれません。人の時の流れと森の静寂が溶け合うこの風景に、あのツバサの姿を重ねる者はいない。しかし、誰もが知らずに思い出すのでしょう。心の奥に確かにあった、不思議な奇跡を。彼女は今も、空へと伸びてゆく雲の隙間を見上げながら、次なるひと蹴りを夢見ているのです。